いろいろと、彼がいなくなって私も周りも変わって行きました。
彼がいなくなったことが、たまにわからなくなる時があります。
彼を思う時間はきっと少しずつ減っていると思いますし、思い出して泣くことも減ってきました。
これが”忘れる”ということですね。
それでも、いつまでも思い続けることが正しいのか、
または、彼のことは”思い出”として、新しく生きていくのが正しいのか、私はわかりません。
突然ですが、『進撃の巨人』という漫画を読んだことがある方はいらっしゃるでしょうか。
私が読んでいて、彼が夢中になった漫画でした。
(ネタバレになるかもしれないですが・・・)
最終、好き同士だった男女がいて、男が亡くなります。
男は自分が死ぬことはわかっていたので、友人に
”あいつには俺のことをずっと想っていて欲しい!せめて、10年くらいは”
みたいなことを言います。
その話を読んだ彼は、『気持ちわかるなー』と言っていました。
私はその時は、まさか自分の好きな男がこんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、なにか適当なことを言った気がします。
やはり、”私は強い”ので、一人でも平気というのはずっと想っていましたので・・・
それでも、やっぱり一人は寂しいです。
でもたまに一人で楽だなと思う時もあります。薄情ですね;
人間、結局ないものねだりなのかもしれないですね。
一人で楽な時もありますが、彼がいた時の方が幸だった。
一人に”なってしまう”のと、一人に”なりたい”のとは大きな違いがあると思います。
せめてあと30年くらい後だったらよかったのに。
それだったら、”セカンドライフ”として余生の楽しみを送ろうと思えましたが、こんな早く訪れたらなかなか難しい。
それと、私が辛いと思うのは
みんなが私を責めているように感じることです。
”いつまでもあなたは彼を思い続けなければいけない”
また別の意見では
”自分はとてもさみしい、悲しい、その気持ちをあなたは受け止めないといけない”
なぜ個々の人たちは、私に求めるのでしょうか。
私は私で一杯一杯なのに・・・
笑顔でいるから余裕があると思うのでしょうか。
家にいらっしゃったら、気を使うでしょ?お茶も出すし、ねぎらいの言葉だって言いますよ。
”悲しい”に上下はないと今でも思っていますし、必要ないと思います。
でも。『自分が悲しいから話を聞いてくれ』という話の切り口で、その後例えばその気持ちを私にぶちまけるのはまだいいですが、そんなこともなく、ただただ黙ってその空間を支配するのはやめて欲しい。
まぁ、ぶちまけられても困りますけどね。
まるで私に癒やせと、慰めろという空気を作る人は何なんでしょう。
反発するように、”それは私がどうにかすることですか?””それは私にいうべきことですか?”など強めにいうこともあります。
でも、それを言った後に後悔もします。
それでも私はそんな人たちのために存在したくない。
周りが思う”私の正しい道”など聞きたくもないし押し付けられるなんて真っ平です。
何だかイライラした内容になりました。
いつか明るく楽しい話を描けるようになれればな・・・