ずっとこれからも

大好きな婚約者が亡くなり、気持ちの整理と記録のために始めました。

失語症になった父

 

 

私の父は、住職です。

 

小さい頃から、朝5時からお経を読まされたり、お寺の行事の時は手伝いをさせられたりしていました。

 

父が住職なので、家族で旅行など、もってのほかでした。

家に誰かは居ないといけないので。

 

 

父は、本当に住職なのかと思うくらい、適当でちゃらんぽらんでした。

私は、子供の頃、自分の父はいつ働いているのかわからなくて、母に聞いたことがありました。

 

友人の家に遊びに行った時のいつも違和感がありました。

だいたいの家庭の父親は、会社に行って、夜遅くに帰ってきて、という生活を送っていました

 

 

私の父は、日によって居たり居なかったり。

学校から帰ってきたら、居間で寝て居たり、そうと思えばひたすらに何かを筆で書いていたり、何日も会えなかったり。

子供の頃は不思議でした。

 

 

大人になって、父に休みがなかったことを知りました。

 

住職なので、基本的にいつもお札を書いたり、月命日のお経をあげに行ったり

移動は基本的に車で、車にはいつも着物を載せていました。

 

急に亡くなる方ももちろんいますので、その時は連絡が来たらご飯中でもお酒を飲んでいても駆けつけます(飲酒時は母が運転して行っていました)

 

そして、お通夜・お葬式。

 

いつもバタバタと働いていました。

 

 

そして、そんな父が頭を打って、失語症になってしまいました。

 

失語症にもいろいろ種類があるようですが、私の父は、『言いたいことが言葉につながらない』というものです。

 

例えばでにいうと「メロン」と言いたいのに、頭に浮かぶのは「みかん」でそれが違うとわかっているのにそれ以外が出てこない。

結局何を口に出せばいいのかわからなくて、モゴモゴと歯切れのわるい言葉を発するしかない。

それに加えて、脳へのダメージにより、顔の半分の筋肉を動かすことが難しくなってしまいました。

失語症に加えて、口の筋肉を動かすことが難しくなり、より喋るということが困難になりました。

 

父がそうなった時、どれだけ残酷なのだと思いました。

一命は取り留めたものの、父が一番大切にしていた”言葉”を奪われました。

 

住職である父は”話す”ということが仕事です。

そしてそれが父が一番好きなことでした。

話すことが大好きで、その話でどれだけの人を救ってきたのだろう

大切な人を亡くした時、よりそって話を聞いて、話してくれる人というのは本当に救いになります。

 

その”話す”ということを奪われて、どれだけ父は辛かっただろう。

 

父の話は、他のお寺でも有名で、話をして欲しいと依頼を受けるくらいでした。

口もうまく、常にネタ帳に話のタネを書き留めていました。

 

 

今、父がもし話せたら・・・

私が生涯を通して、一番大切だった彼を失い、できることならば、父の話を聞きたい。

聞いて欲しい。

僧侶としての・父としての話を聞きたい。

 

 

でも、打ち明けてもきっと自分の想いを伝えられない父は辛くなるだろうと思うので、聞きません。

 

そしてその後、膀胱癌になり、膀胱の全摘出。

退院したと思ったら、その1ヶ月後に腰を痛め約半年の入院。長期の入院にもかかわらず、原因はわからず、ただただ一人で入院生活を送りました(コロナの影響で、母も面会がなかなかできなかったので)

治療や薬のせいで、一時期、廃人のようになってしまったそうです。

 

それでも、それを耐えて今は自宅でゆっくりと過ごしています。

 

生きるより、死ぬより、辛いことがあるならば、父はその経験をすごしたのではと

ふと思ったりします。

 

 

それでも、今でも、ちゃらんぽらんで笑ってお酒を飲んで、今を生きていてくれる父に、感謝と共に尊敬を感じています。

 

 

今でも腰は痛いでしょうし、膀胱を全摘出したので常にストーマーをつけて過ごしているのも大変だと思います。

話すことも難しいですが、それでも母や檀家さん、私に一生懸命話してくれます。

リハビリも通っています。

 

大好きなお酒は今でも毎日飲んで、ほろ酔いでいつも電話をくれます。

 

 

そんな父を、私も見習わなければと

今日もちゃらんぽらんにいきます。